丸の内や銀座の界隈には魅力的な建築物が多数ある。かつては歴史的にも重要な建築物があったが、残念ながら戦災でかなりのものを喪失してしまっている。しかしながら、東京駅や服部時計店ビル(銀座和光)のように相当な労力をかけてかつての姿を取り戻したものや、歌舞伎座やJPタワーのように新旧のバランスを考慮しつつ再生したものもある。この界隈の主な著名建築物を、東京駅を起点として、新橋駅に至るまで一筆書きの要領で効率よく歩いて回ってみたら、3時間ほどで堪能することができた。その際の道のりと、建築物の背景について記録しておきたいと思う。ちなみに、私は建築については系統的に勉強したことのないズブの素人なので、内容については多々怪しいところがあるので注意してほしい。
東京建築散歩 その1 丸の内・銀座界隈編は、JR東京駅の丸の内中央改札口をくぐるところから始まる。改札口を通り抜け、皇居に向かって100m進み、そこで振り返ると日本の国の誇りが目の前に広がる。
東京駅の設計は、明治から大正時代に活躍した辰野金吾。佐賀県の唐津市出身で、唐津には彼が設計したとされる(実際の設計は弟子の田中実)旧唐津銀行本店が辰野金吾記念館として残されている。辰野金吾は1879年に工部大学校、現在の東京大学工学部の1期生として主席で卒業した英俊で、官費留学生としてヨーロッパに留学して建築を学んでいる。
東京駅(中央停車場)は辰野金吾の代表的な建築物。辰野が工部大学校教授を辞した後に辰野葛西設計事務所を共同経営した葛西萬司との共同設計の作品である。3階建て、全長330メートルにもなる威風堂々とした煉瓦と鉄筋造りによる駅舎で、赤煉瓦の建物を白い花崗岩で縁取りしたデザインを特徴とする。この様式は、他の辰野金吾の設計作品にもしばしば現れ、辰野様式と呼ばれている。
1914年竣工で、1923年には関東大震災で被災したものの、大きな被害は生じなかったという頑丈な駅舎である。しかし、1945年の東京大空襲の際には焼夷弾が着弾し、内装は失われ、鉄骨の屋根は焼け落ち、かろうじてレンガ造りの壁とコンクリートの床などの構造体のみが残存している。
戦後すぐに修復されたものの、損傷の著しかった3階部分は安全性を考慮して撤去され、2階建てに変更されている。旧駅舎の構造は、現在は駅舎の外側からうかがうことはできないが、東京ステーションギャラリーの階段部分などで見ることができる。
その後、2000年に丸の内駅舎を創建当初の姿に復元する方針がまとめられ、2007年に起工し、2012年10月1日に復元工事が完成している。2014年には東京駅は開業百周年を迎え、記念SUICAが販売されるなどのイベントが多数行われている。
現在は、南北にある八角形のドームの天井に取り付けられた8羽の鷲や8つの干支のレリーフも、当時の意匠を忠実に復原している。
建造費は500億円とされているが、この国内で有数の超一等地に贅沢にも3階建てのビルを建てて余剰になった容積率を丸の内のビル群に売却することで、その費用の大部分が賄われたとされている。
参考文献:OnTrip JAL:https://ontrip.jal.co.jp/tokyo/17312852