東京駅を起点として新橋駅に至るまで、丸の内、銀座、築地、新橋界隈の著名な建築物を巡る一筆書きの旅の8つ目の建造物。晴海通りを南に向かって歌舞伎座前を通り過ぎて50mほど進むと、首都高速が地下部分を走る橋梁が見えてくる。橋梁を渡らずに晴海通りを左に折れ、1ブロック北に向かって進むと、圧倒的な存在感を放つコンクリートの塊でできた建造物、電通築地ビル(電通テックビル)が交差点の向こうに現れる。敢えて首都高速道路の橋梁を渡らない理由は、ビルの威圧感を交差点の反対側から少しずつ味わっていきたいからだ。
(8) 電通築地ビル(電通テックビル) 中央区築地1丁目11-1 設計:丹下健三
コンクリート製の柱梁の力強さが威嚇するかのように周囲を圧倒する存在感。1967年に竣工し、2002年に汐留の電通本社ビルが完成するまで、電通が本社を置いていた。巨匠、丹下健三の設計。
当初の設計案は、巨大な2本の柱で3階のフロアを持つユニットを3層持ち上げるという、とてつもなく斬新な設計。言葉ではなかなか説明できないが、神社の鳥居の2本の柱を太く短くして、水平材に当たる部分の3段重ねの長方体を柱が貫いたような構造。パワーポイントで描いてみたが、透過が上手くいかずこんなものしか描けない。
丹下健三は当時の電通の吉田秀雄社長から本社ビルの設計を依頼された際、築地エリア全体を対象に「築地再開発計画」(1964)を策定し、築地一帯に複数の超高層ビルを建てて、それらを空中回廊で連結する構想を立てていたが、着工寸前に吉田社長が死去して築地再開発計画が頓挫。本社ビルの設計も、柱で持ち上げるというコンセプトの設計が大幅な予算超過となったため、現在のような通常の柱と梁を持つ建物の設計に大幅に変更されている。
丹下健三は建築家として有名だが、東京帝国大学建築科大学院に在学中は都市計画を専門にしていた。それ故か、丹下の設計は建造物だけでなく、周辺の環境や周辺の建造物との関わりがとても強く感じられる。残念ながら電通築地ビルは都市計画としての作品として未完で終わってしまっているが、同じく丹下健三の設計になる広島平和記念資料館や東京都庁舎第一本庁舎などでは、スケールの大きな都市計画の一部としての建造物の在り方を感じることができる。
35年間、このビルを使ってきた電通は、現在は汐留の本社ビルに移転している。その後は子会社の広告制作会社である電通テックが本社として用いた後、取り壊しが決まり、現在(2020年4月)は空き家の状態になっている。