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【症例報告】 N,N-ジエチル-3-メチルベンズアミド(DEET)の塗布にもかかわらずCulicidae類による吸血が発生し即時型および遅延型アレルギー反応を呈した症例

   背景

  カはハエ目カ科(Culicidae)に属する昆虫である。ナガハシカ属、イエカ属、ヤブカ属、ハマダラカ属など、世界中には35属、約2,500種~約3000種が存在し、日本にはこのうち100種程度が棲息するとされている。

 通常、摂取する物は植物の蜜や果汁などの糖分を含む液体であるが、産卵期を迎えたメスのみが卵巣の成熟の開始に必要なタンパク質を得るために吸血する。多くの種類のカは、血液に含まれるATP(Adenosine TriPhosphate)によって血液を認識し、吸血開始のトリガーとしている1)。オスはメスと異なり、吸血を行わない。

 吸血の際には皮膚に口針を挿入して吸血を行うが、血管内に口針が侵入すると異物と認識され、哺乳類の血液中では即座に血小板の集合粘着が生じる。血液凝固が生じてしまうと吸血行為を実施することができないため、吸血時のカは血液の凝固を防ぐ作用を有するアピラーゼ(apyrase)という酵素を含んだ唾液を毎秒6回の速度で注入し、吸血部位に浸潤させて吸血動作を完遂する。アピラーゼはATPをADP(Adenosine DiPhosphate)→AMP(Adenosine MonoPhosphate)と迅速に代謝する酵素で、血小板の凝集に必要なADPを消失させる作用を発揮する。このため、アピラーゼを大量に唾液から分泌する種類のカの吸血所要時間は短いことが知られている1,2)

 カの唾液中には、アピラーゼの他にも対象動物に口針の刺入を認知しにくくするための鈍麻作用を有するペプチドなども含む。これらは人体にアレルギー反応を引き起こし、その結果として肥満細胞からヒスタミンの遊離が生じ、発赤や痒みを生ずる。

 カによる害は、吸血後の痒みといったアレルギー反応のみならず、日本を含む東南アジアでは、主にコガタアカイエカ日本脳炎ウィルスを媒介する。また、マラリアなどの原生動物病原体、フィラリアなどの線虫病原体、黄熱病、デング熱脳炎、ウエストナイル熱、チクングニア熱リフトバレー熱などのウイルス病原体を媒介し、「地球上でもっとも人類を殺害する生物」と言われている3)

 カに対する忌避剤として現在もっとも一般的に使用されているのが、N,N-Diethyl-meta-toluamide(DEET)である。これは皮膚に塗布する忌避剤で、吸血昆虫の皮膚表面への着地、あるいは着地後の針を刺す探針行動を忌避することが知られている。

 今回は、DEETを露出皮膚面に塗布していたにもかかわらず、Culicidae類による吸血事象が発生し、それに引き続く即時型アレルギー反応と、さらに24時間後に遅延型アレルギーと思われる症状を呈した症例を経験したので報告する。

    症例

 症例は50歳代の男性。非喫煙者で、習慣的なアルコール摂取は行っていない。その他、特記すべき基礎疾患を有しない。症例報告に際しては、研究報告の趣旨を説明し、文書によるインフォームドコンセントを得ている。

 事象が発生した日時は、2020年8月22日午前11時頃である。発生場所は熊本県玉名郡和水町江田の江田船山古墳公園内である。

 患者は同日午前8時頃に露出した上下肢および頸部の皮膚にDEETを有効成分とする吸血動物忌避剤を塗布した。その後、屋外にて6kmほどの歩行を行い、当該事象が生じる直前には、給水のために戸外のベンチにて座位姿勢を5分間ほど保持している。その際、周囲には十数匹の飛翔小動物が周囲をホバリングしていることを視認しているが、DEETを塗布しているため吸血事象発生のリスクは低いと判断し、とくに給水場所を変更したり、手指にて飛翔動物を追い払うなどの予防的な行動はとっていない。座位姿勢を変えずにいると、周辺をホバリングしていた飛翔動物のうち、Culicidae類と思われる1個体が右側膝関節直下の下腿内側にランディングし、その後軽度の穿刺感覚が発生した。患者自身により、同個体はカであると判断し、手指にて同個体の捕獲を試みたが、即座に飛翔したため捕獲には至らなかった。

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カによる吸血が始まった状態

 吸血が発生したと思われる部位には、3分ほどで発赤と掻痒感が生じ、その後φ10mm程度の皮膚の軽度の膨疹を形成した。掻痒感と膨疹は1時間ほどで消退したが、24時間経過後に同部位には赤色の皮疹が生じている。掻痒感やその他の臨床症状は発生していない。同症状は48時間後にはほぼ消失し、治癒をみている。

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即時型アレルギー反応が生じた状態

   考察

  今回の症例においては、現在最も頻用されているCulicidae類に対する吸血の忌避剤であるDEETを皮膚面に塗布したにもかかわらず、塗布後3時間ほどで吸血を経験している。また、その後に吸血動物の唾液に由来すると思われる即時型のアレルギー反応を呈し、その後遅延型のアレルギー反応と思われる症状にまで進展している。

 N,N-Diethyl-meta-toluamide(DEET)は、米国陸軍の求めにより米国農業省のSamuel Gertlerによって1944年に開発された吸血虫の忌避剤である4)。1957年に民生用の使用が開始され、現在ではほとんどの虫除けスプレーの主成分として使用されている。DEETには殺虫作用はなく、吸血昆虫の皮膚表面へのランディング、あるいはランディング後の探針行動を忌避することが知られている。ゆえに、DEETを皮膚に塗布しても周囲を蚊が飛び回るが、容易には皮膚には着地せず、着地しても針を刺すことなく飛び去ることになる。

 忌避剤の使用に際しては、必要部位に塗布することが重要であるのは言うまでもない。しかし、忌避剤の応用を怠った部位に有害事象が生じることも見られるようである。DEETに限局せずに過去の文献を渉猟してみると、我が国における忌避剤の不足に伴う有害事象については、1350年頃に発生した著名な盲目の男性弦楽器奏者の事例が報告されている。本症例においては、忌避剤の不足により、最終的には両耳の切断という重篤転帰をみており、忌避剤の適切な使用に関する警鐘を鳴らしている5)

 今回の症例では、DEETが汗で流失したり、有効濃度以下に希釈された部位が発生したため、吸血行為が実施されたのではないかと思われる。また、発生部位から推察すると、着衣と皮膚との擦過によって皮膚面のDEETが消失したことも考えられる。幸い、即時型のアレルギー反応に引き続き、遅延型のアレルギー反応まで呈したが、とくに抗ヒスタミン剤などの処方を行うことなく、経過観察のみで症状は消退している。忌避剤の適切な使用に関しては、今後は留意が必要であると思われる。

 

   参考文献

  1. 池庄司敏明:蚊の吸血機構、化学と生物、1987.
  2. 中山 康博, 川本 文彦, 須藤 千春, 中嶋 暉躬, 安原 義, 藤岡 寿, 熊田 信夫:蚊の唾液腺のヒスタミンおよびエステラーゼについて、衛生動物、36,4,1985.
  3. Timothy C. Winegard. The Mosquito: A Human History of Our Deadliest Predator. 2019.
  4. Katz TM, Miller JH, Hebert AA. Insect repellents: historical perspectives and new developments. Journal of the American Academy of Dermatology. 58 (5): 865–71, 2008.
  5. 小泉八雲耳なし芳一、怪談、1904.

 

   要約(Kumamotian訳)

 スプレーばしたけん大丈夫やろと、蚊がブンブン飛び回らんしゃるところば座っとったらたい、右膝の下ば刺されたったい。すーぐに痒なって、いちんち経ったらっさ、刺されたとこに跡ば残ったったい。以上。