とりあえず、歩くか。晴れた日は星空の下で寝るのもいい。

週末の九州自然歩道のトレッキングや日常の雑感です。英語版のトレッキングログもこちら https://nayutakun.hatenadiary.com/  で公開しています。

前方後円墳

 九州自然歩道を歩く旅の途中、熊本県の北部にあたる菊池川に沿って玉名、和水、山鹿、菊池と上流に遡ると、多くの古墳を目にする機会があった。ビックリしたのが最初に目にすることになった和水町にある若宮古墳。墳長が30m以上ある立派な前方後円墳なのだが、芝生に覆われた古墳が公民館の中庭だったこと。

f:id:nayutakun:20200903173107j:plain

公民館の中庭と化している若宮古墳(熊本県和水町

 古墳というと、文化財の指定を受けて周りを柵で囲まれて、容易には近づけないように厳重に管理されているものだと思っていた。ところがここは、前方後円墳の裾の部分が削られてアスファルト舗装され、車まで停められている。ひょっとしたら、古墳というのは思ったよりも数が多く、身近なありふれたものなのではないかという疑念が湧いてきたので調べてみた。

   日本には10万以上の古墳がある

 文化庁文化財部記念物課が公表している埋蔵文化財関係統計資料平成28年度を見てみると、現存する古墳・横穴は137362で、すでに消滅してしまったものは18218となっている1)。ものすごい数だ。熊本県の現存数は1314。これに対し福岡県は7909。福岡にも多数の古墳があったのだ。ホントに自分の無知さ加減にはあきれてしまう。

   なんと前方後円墳データベースまである

 また、The古墳という形の前方後円墳については、奈良大学がデータベースを作成している2)。これには前方後円墳に加え、前方後方墳や帆立貝型のバリエーションの前方後円墳をあわせて全国で5229の古墳が収載されている。データベースの地図を見てみると、福岡の自宅から歩いて5分のところにも2つの前方後円墳が登録されている。迂闊だった。折角の機会なので、この際せめて前方後円墳だけでも勉強してみることにした。

   最初の前方後円墳は3世紀に突如現れる

 前方後円墳は、主に日本で3世紀中頃から7世紀初頭頃に作られた代表的な古墳形式として知られる3,4)。最初に築造された前方後円墳とされているのが奈良県桜井市にある箸墓古墳。3世紀中ごろに出現した大和地方の都市である纏向(まくむい、今の巻向駅近く)に現存する。箸墓古墳以降を古墳時代の始まりとしているランドマーク的な古墳である。墳長およそ278メートル、後円部は径約150メートル、高さ約30メートルで、規模も大きい。

 箸墓古墳宮内庁により陵墓として管理されており、実際の被葬者は不明。築造年代は、周囲から出土した土器と、土器に付着した炭化物によるC14年代測定法により、3世紀中頃から後半とする説がある。築造された年代が邪馬台国卑弥呼の没年(248年ごろ)に近いことから、笠井新也の邪馬台国畿内説の提唱以来、卑弥呼の墓とする説もある。

   前方後円墳の各部の名称

 前方後円墳の一般的な基本構造は次のとおり4)

f:id:nayutakun:20200903173223j:plain

前方後円墳の各部の名称
  1. 後円部

 円形をしている後円部が埋葬のための墳丘。ここに首長が埋葬されている。頂上は狭いが平坦に造られていて、その下の土中に埋葬しやすい形に造られている。裾から頂までは勾配が強く、簡単に登ることができないように作られている。

f:id:nayutakun:20200903173420j:plain

後円部(江田船山古墳、和水町

f:id:nayutakun:20200903173512j:plain

後円部の石棺が埋葬された部分(江田船山古墳、和水町
  1. 前方部

 墳墓の正面となる。前方部がどのような目的に使用されていたか詳細は分かっていない。死者を祀る祭壇として使われていたとか、前方の隅角部から後円部に向かって葬列が上がることができる墓道であったとする説などがある。後期には前方部にも埋葬が行われた例がある。

f:id:nayutakun:20200903173304j:plain

前方部から眺める(江田船山古墳、和水町
  1. 造出(つくりだし)部

 くびれ部の左右に付け加えられた方形の墳丘。この部分から多数の遺物が出土することから、ここで祭祀を行ったり、あるいは追葬が行われていたと考えられている。

f:id:nayutakun:20200903173933j:plain

手前から前方部、造出、後円部が分かる(江田船山古墳、和水町
  1. 周溝(周壕)

 墳丘の周囲に巡らされた溝。墓域を明確にするため、また水を湛えた後は進入を阻むために作られた。

   前方後円墳のルーツを調べる

 3世紀の日本に突如現れた前方後円墳という巨大建造物を、土木工学の見地から分析を試みて、ルーツを探索した研究も見られる5)。いくつかの視点からの検討を行っているが、いずれも非常に興味深い。

 まず、施工の精度から古墳築造に応用された数学、測量技術のレベルを推測し、中国・朝鮮半島からの測量・幾何学の素養のある技術者の設計が必要であったであろうとしている。3世紀にはすでに中国では数学や測量術の発展を見ており、周髀算経(しゅうひさんけい、前漢、紀元前2世紀頃)、九章算術(きゅうしょうさんじゅつ、紀元前1世紀~紀元後2世紀)といった学術書も残っているからである。

 また、設計の背景にある思想をみてみると、古代中国の天円地方と陰陽思想が採り入れられている可能性が示唆される。そして、古墳で使用されたであろう尺度を分析してみると、中国で用いられていた1尺23.09cmの漢法定尺を基本的には用いていた可能性が高いと推察している。つまり、前方後円墳の構造を調べると、中国・朝鮮半島からの技術の移植があったと思われることが、工学的な見地から示唆されている。

 日本に中国から文字が伝来したのは4世紀頃とするものもあるが、1世紀頃のものとされる金印(福岡県志賀島出土、漢委奴国王と標記)や銅銭(長崎県シゲノダン遺跡出土、貸泉と標記)ですでに漢字を目にしているはず。日本語の音の記録に使い始めたのはそれよりずっと後になるとは思うが。古墳築造に中国の技術者の参画があってもおかしくはない。歴史のミステリーの襞を一枚一枚めくっていくような気分がして、楽しく古墳について調べることができた。

 

 参考文献

  1. 文化庁埋蔵文化財関係統計資料 平成28年度、https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/pdf/h29_03_maizotokei.pdf
  2. 奈良大学前方後円墳データベース、https://zenkoku-kofun.nara-hgis.jp/
  3. 白井久美子:前方後円墳の理解、千葉大学人文社会科学研究科研究プロジェクト報告書, 276, 123-132, 2014.
  4. 広瀬和雄監修、知識ゼロからの古墳入門、幻冬舎、2015.
  5. 須股孝信、坪井基展:前方後円墳の設計理念と使用尺度、土木史研究、17、1997.