昨夜は五家荘の集落の一つ、仁田尾(にたお)のはずれにテントを設営した。標高は834mあったが、それほど冷え込みはなく、夏用のシュラフで心地よく眠ることができた。谷が深いため陽光が差し込まず、まだ暗かったが、6:00に起床して撤収作業を始めた。今日はバス停まで25kmほどあり、しかもそのバスは1日4便ほどしかないため、早めに行動することとして6:35には行動開始。歩き始めるころに、ようやく山の端を太陽の光が照らし始めた。
行動を始めてすぐにヒゲのおじいさんがウォーキングしているところに遭遇した。挨拶を交わすと、「観光ですか?」と尋ねられた。「観光です」と答えると、「以前、この辺りは秘境とか言われていたけど、今ではこんなにひらけてしまって」との返事。いいや、今でも十分に秘境ですと思いながらも、「ずっとこちらにお住まいですか?」と尋ねると、「お父さんが京都から引っ越してきた。」とのこと。「おじいさんは大宰府で亡くなったけど。」と続く。「ひょっとしたら、おじいさんって、道真(みちざね)さん?」と恐る恐る尋ねてみたら、「そう、わしが49代目。」と返事が来てビックリした。
聞けば、このおじいさん、仁田尾の左座(ぞうざ)家の49代目当主。菅原道真が大宰府で亡くなった後、政敵の藤原家に血脈を絶たれることを恐れた長男は、五家荘の仁田尾に逃れて左座太郎を名乗り、初代の左座家の当主となったとのこと。今話している目の前の方が49代目。千年近く前の菅原道真のことを、数年前に亡くなったおじいさんのように語る。道真の次男の方は、菅次郎を名乗って、同じ五家荘の樅木に逃げたとのこと。菅家がまだ続いているかどうかは聞き忘れてしまった。
五家荘は平家の落人集落だと思っていたが、5つの集落のうち仁田尾、樅木の2つは菅原道真の子孫によって作られ、椎原、久連子、葉木が平家の集落だということも初めて知った。今日は、この秘境がなぜ千年続いたか理解できた。血脈を絶やさないために、徹底的に親から子への伝承があったのだろう。49代を経てなお、おじいさんは大宰府で亡くなった、おとうさんが京都から引っ越してきたと、千年近く前のことをついこの間のことのように口から出てくる当主の言葉を聞けば、それと知れる。
49代目と別れた後は、6km先の椎原に向けてどんどん高度を下げていく。頭の上を水力発電の送水管が超えていく。内大臣峡もそうだったが、九州の脊梁山脈に近いこの地は降水量が多く、水力発電の適地として利用されている。
稜線はところどころ岩となっており、容易に超えることができない。トンネルをくぐって北向きの谷になると再び太陽の光は差し込まなくなる。谷底からは雲が湧いてくる。谷底には川辺川(かわべがわ)の流れが見えるようになってきた。
脊梁山地に降る雨のため、この地には土砂災害が多い。急な斜面はコンクリートで固められたり、金網で保護されたりしているが、最近、大量の落石があったためか、ところどころガードレールが変形して、今なお難所であることがうかがわれる。
さらに高度を下げると、川辺川の水面が近づいてきた。しかし、豊富な水量の川辺川はなかなか超える場所がない。川が見え始めてから1kmほども上流に遡行して、ようやく川辺川をまたぐ桂橋を越えて対岸に渡ることができた。桂橋の標高は473m。今朝出発した仁田尾の標高は834mあったから、400m近く高度を下げたことになる。橋の上から眺める川辺川は、急流が岩を削るためか、水が白く見える。濁った水とは異なる。ミルクを流したような色なのだ。
ここから1kmほど対岸の道を上り、昨日、大金峰への登山口に向かうために分かれた国道445号線に復帰し、8:00に五家荘の平家の里である椎原の市街地に到着した。
椎原は平家の落人伝説で知られるが、20軒ぐらいの家屋の集まった小さな集落。ほんの少しの商店と生徒のいなくなってしまった小学校がある。小学校は、現在は観光案内所として活用されているよう。
8:00をすぎて椎原のある谷底にも太陽の光が届き始めた。川辺川に沿って下流に進み、8:30に椎原ダムという小規模なダムに到着した。ダムの水もミルクを流したようにうっすらと白い。川がすぐそばまで迫ったこのあたりの道路は岩を削って作った道で、道幅が狭く、この先500mに離合場所というとんでもない表示もある。
川辺川の北岸と南岸の両側に道路がつけられているが、どちらかの道路が崩落のために通行できない状態になってところも多い。国道445号線は北岸から南岸に、南岸から北岸へと橋を渡り、ジグザグに下流に向かって進んでいく。その橋自体も、仮設の橋かと思われるものが時折現れる。
道路の状況にはやや不安があるが、道路の横に流れる川辺川の様子はとても美しい。しばらく川辺川の北岸を通る九州自然歩道を歩いていると、その先の歩道は土砂崩れで進むことができない状態になっていた。やむなく仮設橋のあたりまで戻り、南岸を進む国道445号線で下流に進むこととした。
南岸を進む国道は、緩いカーブを描く橋を越えて北岸にわたり、そのまま五家荘トンネルに続く。五家荘トンネルは長さ640mのトンネル。通行する自動車はほとんどなく、気持ちよく真ん中を歩いて進む。
五家荘トンネルを抜けた後、道路は五木村に入る。トンネルを出てからはしばらく日当たりの良い北岸の道を進む。川辺川からはかなり高い位置に道路は取り付けてある。トンネルの先は橋となっているが、この橋は川を渡らない橋。北岸の傾斜地には十分な広さを持った道路が取り付けられないため、橋脚を設置して北岸に沿うような道路が取り付けてある。
橋の名に気を付けて見てみると、宮の首谷川橋なるちょっと薄気味悪い名前の橋もある。かつてここで何があったのだろうかと想像してしまう。道路の高度が下がり、川が近づいてきた。また、水力発電所を通り過ぎる。
北岸から南岸への橋を渡ったところの宮園の集落には11:25に到着。ここでは集落のすぐそばを川辺川が流れている。宮園集落には樹齢500年といわれる大きな公孫樹の木がある。雄株のため銀杏の実は付けていない。この木の下にベンチがあったため、しばらく小休止とした。宮園には久しぶりに小売店があったが、日曜は営業していないようであった。
11:10に行動を再開し、川辺川のすぐ横を歩く。1kmほど進んだところに、対岸の鶴集落への吊り橋があったため、用もないのに渡ってみた。川から吹いてくる風が心地よかった。
その先は、川辺川の取水のための堰堤や、岩を刻みながら流れる川の景色を楽しみながらゆっくりと歩を進めた。
11:55に川辺川が南から流れてくる梶原川と合流する竹の川集落に到着した。九州自然歩道はここから南に梶原川の上流に進むが、今回はここで九州自然歩道を離れ、バス停のある4km先の五木村に向かう。
しばらくは川面に近い道路を進むが、橋を渡り、北岸を進むようになると、路面の状態の整った規格の良い道路に変わる。トンネルを超え、新しい橋梁の建設が行われている。川辺川はずいぶん下方に見えるようになってきた。ここは川辺川ダムの建設が進んでいたら水没する予定のところだったのかなと思いながら進む。
川辺川がはるか下に見える椿橋を渡る。五木村の中心になる頭地地区はもうすぐだ。カーブを曲がると新しく大きな橋が見えてきた。橋の下にはいくつかの家が残っているが、ほとんどの住居は高台に移った後のようだ。川辺川ダムは建設の是非をめぐり長い間揉めてきたが、現在は中止の方向になっているかと思ったが、これから先はどうなるだろう。
13:20に五木村頭地に到着した。五木村は五木の子守歌で知られている。数年前にできたばかりの頭地大橋を往復し、川辺川の両岸にあったはずの住居が移転した跡地を上から眺める。その後に、五木阿蘇神社、村役場、道の駅などを見学し、13:50に温泉施設に到着した。バスの時間まで3時間ほどある。間に合ってよかった。温泉施設で汚れを落とし、ゆっくりすることとした。
2020年9月27日 九州自然歩道 55日目 熊本県八代市泉町仁田尾(五家荘)~球磨郡五木村頭地 晴れ 気温26/9 距離24.3km 行動時間7:16 平均速度3.7km/h 34648歩