2023年5月大型連休の東海自然歩道トレッキングは、最終日の5月7日の大荒れの天気予報のため、途中の行程を長めにとって、連休最終日よりも1日早い5月6日に愛知県最東部にあたる新城市大野で離脱した。
自由になった1日は、長野県にある弟の山小屋で過ごそうと、最終日に電波が入るようになってから弟と連絡を取り合い、JR飯田線の山小屋の最寄りの駅まで迎えに来てもらうこととなった。
地図で見ると、弟の山小屋のある位置から最短距離の飯田線の駅は鴬巣(うぐす)あたり。それを伝えるとできれば飯田までJRに乗ってきて欲しいと、気の乗らない様子。
飯田は地図から外れるほど北にある。しかも1時間ほど余計に乗車時間が長くなる。三河大野駅を17:51の列車に乗ると、鴬巣には19:28。飯田には20:30に到着となり、温泉の終了時間にも間に合わなくなってしまう。
飯田よりも近いはずの鴬巣に迎えに来るのをなぜか嫌がる弟に無理を言って来てもらい、真っ暗な無人駅の鴬巣駅で下車したのは定刻の19:28だった。
駅の周囲は人家の光のない漆黒の闇。こういう所に迎えに来るのが嫌だったのかなと思っていたら、街路灯のないワインディングロードをハンドルを操りながら弟が話し始めた。
今から20年以上前の話。弟が会社の後輩を助手席に載せて、渓流魚釣りのためにこのあたりの道路を午前3時を過ぎた頃に目的の川に向かって運転していた時のこと。渓流釣りの朝はとても早い。その川に誰も入る前に釣り上がっていかないと、いったん人が入ってしまった川では魚が警戒してしまって釣れなくなってしまうからだ。
そんなことを考えながら街灯のない真っ暗な道路を運転していたら、突然道路に飛び出してきた人影があり、急ブレーキを踏んだ。道路の左側に立っていたのは70歳をゆうに過ぎているかと思われる老女。大きな袋を手に持っている。
運転席の操作盤で助手席の窓を開けて声を掛けると、「鶯巣駅まで乗せていって欲しい」という。鶯巣駅までは10km以上もあるところだが、ちょうど目的の川に向かうには回り道になるほどでもない。「いいですよ」と答えると、老女は助手席の後ろのドアを開けて乗り込んできた。
大きな袋を膝に抱えた老女は、半年ほど前にご主人を亡くしたこと、それから運転免許を取る決心をしたこと、今朝は飯田の運転免許試験場で路上試験を受けるために鶯巣駅から始発の飯田線に乗るつもりだったこと、すでに1時間以上歩いていたことなどをひとしきり話すと、その後の車内は静かになった。
鶯巣の駅近くには10分ほどで着いた。駅は100mほど先の坂の上で、自動車は入れない。まだ4時前で周囲の真っ暗な道路で車を停めると、老女は礼を言いながら袋の中からクシャクシャの千円札のようなものを取り出すと「コーヒーでも」と運転席の弟に渡そうとした。弟がそれを辞退すると、老女はドアを閉めて坂の上の闇の中に消えていった。
ふたたび車を運転し始めると、助手席の後輩が堰を切ったように「なんであんなところで停まったんですか?」と烈火のごとく怒りだした。「後ろの席から鎌でも取り出して首を切られるかとビクビクしていましたよ!」、「あのあたりに家なんかあるはずないじゃないですか!」、「道路で見たときあの人の足下、濡れていましたよ!」、「本当に人間だと思ったんですか?」と続く。
「でもな、夜中に歩いている人を放っておけないだろ?」と後輩をなだめながら、ようやく薄明るくなってきた後部座席をバックミラーで見てみると、シートには湿ったような黒い染みが付いていた。今日、鶯巣駅まで迎えに来た弟は、それ以来、鴬巣あたりを暗くなる時間帯に運転することが怖くなったそうだ。
というような話を聞いていたら、弟が急ブレーキを踏んで道路の真ん中に車を停めた。
まさかあの老女がまた立っているんじゃないかと思ったら、「タヌキだ。逃げようともしないな。」と前を見ながら弟がボソリと言う。こちらを見る野生の目が光る。車をゆっくりと前に進めると、ようやく慌てる様子もなく道路の左の草むらの中に消えていった。