東京出張の際、仕事と仕事の合間に2時間ぐらい空いたり、飛行機の時間まで2時間半ぐらいあるときには、これといったイベントが思いつかなければ上野に行くことが多い。ここには美術館や博物館、寄席などの、頑張れば1時間ぐらいで楽しむことができるスポットがあるからだ。今回も、大手町での仕事のあと、次のお茶の水での仕事までに130分という状況が発生した。移動を早足で行えば80分は確保できる。とりあえず東京駅から山手線に乗り、車内でスマホ検索を行い、今回は上野の森美術館で開催されているゴッホ展に行くことにして、上野駅の公園口をダッシュで飛び出した。
ゴッホ展は構成が非常に良かった。ゴッホはオランダ南部の村で1853年に生まれ、1890年にパリ郊外で亡くなっている。たった37年の短い人生で、生涯に売れた絵画は1枚のみとか、精神病を患ったりとか、自分の耳を切り落としたりとか、どこかの会社の会長が100億円以上出して買って死んだら一緒に焼いてと言ったとか、なんとなく寡作なイメージを持っていたが、約860点の油絵を含む2000点以上の作品を残した、意外と制作数の多い画家である。有名な「ひまわり」だけでも7点制作しているし、「糸杉」も3点描かれている。画商として1875年までの6年間を働いた後、聖職者となるべく勉強をしたり活動したりし、北フランスへの放浪を経て、1880年6月ごろより画家を目指したとされているので、画家としての活動は10年ほどである。その間に2000点以上の作品を残しているので、年に200点以上制作していることになる。迸る激情と溢れ出るイメージをキャンバスにぶつけた生涯のようだ。
今回、上野の森美術館のゴッホ展のテーマは、鮮やかな色彩と厚塗りの激しいタッチ、そしてうねりを持った彼の独特な画風が確立するまでの画業の10年間を俯瞰することであった。ゴッホと実際に交流があり画風に大きな影響を与えた「ハーグ派」の作品や、自らの作品が大きな画廊のショーウインドウに飾られることのないゴッホが「表通りの作品」と羨みながらもその美しさに憧れていた「印象派」のモネ、ルノワール、ピサロなどの作品を同時に展示して、画家としての正規のトレーニングを受けていないゴッホの画風の劇的な変貌の理由を考えさせてくれた。
展示された点数は約70点で、ゴッホの制作になるものは、初期作品から晩年の「糸杉」(ニューヨーク・メトロポリタン美術館所蔵)までの約40点であった。音声ガイドもよくできており、ゴッホを生涯にわたって援助し続けた弟のテオが、ゴッホの残した手紙を使ってその時期のゴッホの状況や考えを語ってくれる。最大の見所は「糸杉」と「薔薇」。いずれも晩年の作品で、療養していたサン=レミ病院で描かれ、独特なうねりのある、あふれ出るパワーを感じさせる、最終的にゴッホが行き着いた画風を示した作品である。
次の仕事に間に合うように80分ほどの滞在で上野の森美術館を後にしながら、上野公園の美術館のバトルは大変なのに、上野の森美術館は健闘してるなと、ちょっと愛おしい気分になった。
上野公園には、国立西洋美術館、東京都美術館、上野の森美術館、東京芸術大学大学美術館といったメジャーな美術館がある。ライバルはそれだけでない。パンダを擁する上野動物園や、恐竜展などで人気を博している国立科学博物館や、教科書にも載っているような埴輪や仏像がこれでもかと陳列されている東京国立博物館もある。まちがいなくサバイバルが大変そうだ。
美術館だけを比べてみてもライバルが強すぎる。まずは、建物自体が2016年に世界遺産に登録され、マネモネセザンヌピサロにルノアール、かいじゃりすいぎょのすいぎょうまつ、常設展示だけでも十分に楽しめるぜと、どっしり構えた国立西洋美術館。略称は西美(せいび)。
ここは、もともとは第二次世界大戦後に敵国資産としてフランス政府に接収された松方コレクションを日本に返還してもらうために1959年に建てられたもの。しみったれた美術館には収蔵させたくないと言い張るフランス政府を納得させるため、巨匠ル・コルビュジエに設計を依頼したり、政治家がいろいろ動いたり、洋画家の安井曾太郎をはじめとした美術家が寄付金集めに奔走するなど、開館までにはなかなか興味深い経緯があるが、ここは今回は置いておくとして、なんといっても国立で出自が違う。
次の東京都美術館もなかなかのもの。略称は都美(とび)で知られている。開館は1926年と古く、北九州市若松の石炭商・佐藤慶太郎から当時の東京府に美術館の設立資金として100万円の寄付があり、これをもとに建てられた日本で最初の公立の美術館。老朽化と手狭になったことから、1975年に前川國男設計で現在の新館が完成している。
ちなみに1979年に開館した福岡市美術館も前川國男設計で、外観はそっくり。
都美で2012年に開催された展覧会「マウリッツハイス美術館展」はフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」を目玉として展示して、一日平均10,573人を動員し、2012年度に開かれた世界の美術館展覧会の最多を記録している。
西美、都美に対して上野の森美術館は地味なイメージがある。失礼ながら、上野公園口からすぐのところにあるのに、国立西洋美術館のような存在感はない。ふだんは上野の森の木陰に隠れておとなしくしていて、たまに訪れると上目遣いにこちらを見ながら、小さな声で「ありがと」とだけボソッと言うような美術館なのだ。たとえていうと、つねにみんなの後ろに控えている、色が白くて小柄な女の子。そのじつイラストが抜群にうまくて、たまたま話してみると性格のすこぶる良かった、小学校の同級生の美鈴(みすず)ちゃんのような立ち位置だ。上野の森美術館には、一般に知られた略称もないようだ。なんなら上美(うえび)ちゃんと呼んであげようか。
ところがこの上野の森美術館、ふだんは地味な公募展ぐらいでお茶を濁していると思いきや、今回はゴッホ展。2016年にはデトロイト美術館から印象派の名品を50点以上集めてきたり、2018年には突然、なんとフェルメールを8点も集めたフェルメール展を開催したり、なかなか油断がならない。正直に言って、世界で35点しかないとされるフェルメールを、ここに8点もいっぺんに持ってきて大丈夫だろうか?なんかあったらヤバくね?と思ったほどである。
そう、この上美ちゃん、ふだんはほとんど毎月のお小遣いには手を付けずに、さらにはお年玉も袋に入れたまま貯め込んでおいて、突然プラモデル屋に乗り込んでガラスケースに入った1/20のトヨタ2000GTのプラモデルを買ってしまった小学校5年生の頃の私にそっくりな行動をとるのである。たとえが悪すぎるかもしれないが。ちなみにこのトヨタ2000GTは、私にはパーツが多すぎて手に負えず、未完成のままどこかに逸散してしまった。ということで、上美ちゃんがどんな娘なのか気になってきたので、ちがった、上野の森美術館の成り立ちが気になったので調べてみた。
上野の森美術館は、1972年にフジサンケイグループが開館した私立美術館。日本の美術団体としては最も古い日本美術協会が運営を担当しているようだから、フジサンケイグループが企業メセナとして、日本美術協会に資金を拠出して開館した美術館となるのかな。日本美術協会が運営しているから、優れたキュレーターがいるのだなと納得。企画展のスケールの大きさやセンスの素晴らしさ、海外の超有名美術館から貸借された絵画のラインナップを見ると、よほどの実力者がキュレーターをされているのだろうと思う。また、学芸員による解説やアートスクールも熱心に開催している様子。しかし、西美や都美に比べると、美術館自体に関して、入手できる情報が圧倒的に少ない。所蔵品の収集方針や展覧会の開催方針がよく分からないのだ。
でも、おとなしく見えて、ジャイアントキラーの雰囲気は漂っているので、目が離せない。上美ちゃん、これからもこっそりと応援しようと思う。